続・輪島・門前町報告 危機の社会学:能登震災・水害から学ぶ社会と個人の鍛え方
ゆるゆる第1部:(3) なぜ、ボランティアなのか?:〈危機〉に対峙する志願
「我々は、自分たちの心をさいなむ出来事を超越して、我々の国にとってだけでなく、ヨーロッパのすべての国にとっても重要たる歴史的変遷過程の進度を早めるのに選ばれた世代であることを最高に誇りに思っている。我々が世界中から注目を集め、世界的な時事問題の中で優先的な役割を果たしていることを考えると嬉しくなる。自由を愛するすべての国々は、我々の行っていることの価値を評価し、他の民族が恐れて回避している闘争を熱心に続けている我々を優越した民族として敬服していることも考えると嬉しい。」
Pere Calders(ペラ・カルデース), 1936, 「戦争体験記 Unitats de xoc(『突撃隊』)」より
被災には、〈緊急事態 emergency〉と〈危機 crisis〉がある。この分類は、まれだが確実に、質的にも量的にも想定外の災害がおこる、という「災害の本質性」、それだけに焦点をあてるためではありません。
〈緊急事態〉と〈危機〉とは、支援・復旧・復興のやり方、特にその担い手が、異なることになります。その点が重要なのです。
火事や交通事故といった〈緊急事態〉は、事前に準備された専門組織が対応します。それを上回る〈危機〉は社会全体が対応するしかない。能登半島に生きているのは、この列島で文化と価値観を共有し、日本円という経済圏を共有する仲間です。日常に戻れない仲間のために、自分たちも少しだけ日常を離れ、できることを少しずつ集めて助けていく。
能登は明確に日本社会の仲間ですから、能登が〈危機〉に直面している場合は、仲間を支え続けていく必要も、義務もあります。「共助」がありえるとしたら、そういうかたちになるでしょう。「ボランティア」は、その典型例です。想定外に直面する〈危機〉に対して、自らの社会を守るために志願すること。その本質を明快に示す表現があります。
ボランティアとは、「自らの社会の〈危機〉に対峙する志願と、その勇気」です。
元来、ボランティア(volunteer)は前述の引用のように、ヨーロッパが近世から近代に移り変わろうとしていた混乱期に、貴族や権威ではなく、住民が自分たちで故郷を守ろうと生まれた志願兵に由来しています。よくボラの特徴として、自主性・連帯性・無償性などが挙げられますが、それは当然付随するような条件にすぎません。〈危機〉に対峙する志願、これこそが、ボランティアの本質なのです。
だとすると、ボランティアを理解する場合に重要な点は、もっと他にあります。ひとつめは、それが「自分の社会と仲間を守ること=社会問題に対峙すること」という点です。
奥能登を襲った9月水害は、残念ながらその典型だったといえるでしょう(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83686)。この記事にもありますが、9月水害の主因は、「治山治水の失敗」にあります。つまり、「社会問題」です。そもそも、仮設暮らしから復興するメドがつかないのも、社会全体の問題という意味で明確な「社会問題」です。だから、ボランティアが必要になる。災害支援に限らず、ボランティアがさまざまな社会的課題に求められている理由は、ボラが慈善奉仕活動(charity)だからではありません。チャリティ(charity)とボランティアは対象が重なるので混同されますが、立ち位置がだいぶ違います。チャリティは恵まれない人のためにするもの。ボラは仲間のためにするものです。能登のボラは、能登の人がかわいそうだからボラをしているのではありません。社会の〈危機〉だから、同じ社会の仲間が問題に直面しているから、一緒に解決するために、ボラをするのです。
社会問題に対峙する、という支援は、災害ボラに限りません。例えば障害がある人や子どもへの支援(私のもうひとつの専門ですが笑)も、なぜボラでやる必要があるかというと、それが「社会問題」だからです。障害がある人や子どもの中には、日常的に生活したり、学んだりするのが困難に陥っている人が、いまだにたくさんいる。つまり〈危機〉状態なのです。その解決のためには、〈危機〉に対峙する志願が、一番有効で、必要。Learning Crisis研究会(LC研)は、コロナ禍(英語でCOVID-19 Crisis)の長期休講などの混乱の中で、社会にとって何より重要な「子どもたちの学び」の危機に対峙するために生まれました。私たちは「〈危機〉に対峙する志願」を研究する専門職です。能登支援は、それを応用することが、一番求められているように、私たちには見えるのです。
ボラの2つめの本質、それは今話題にした子どもたちの話、次世代への継承・伝承です。想定外の〈危機〉に、完全に対応できる組織も専門家もいません。なぜなら、その人の事前の準備や想定を必ず裏切って起こるものが〈危機〉だからです(大震災は常にそうでした)。でも、日本列島は有志以来、そのような〈危機〉に頻繁に直面してきたはずでした。近代科学のない昔の方が、はるかに簡単に何度も〈危機〉に陥ったはず。ではなぜ、私たちはこの列島で今まで、ちゃんと生き続けることができていたのでしょうか。それは人々が、〈危機〉に対峙した経験を、ちゃんとその地域に伝承し続けてきたからでした。
阪神淡路、中越、東日本、そして能登…。私はご縁もあってその一部に立ち会ってきましたが、そこで常に有効に動けているのは、「前の震災の時にボラをしていた人たち」でした。阪神では先輩に付いて行っただけで無力だった。東日本ではその反省から、全力で頑張って色々学んだが失敗もたくさんした。だから能登では、今度は後輩を連れていくんだ…。そういった、ボランティアの経験こそが、災害支援にも復興にも、何よりも有効でした。
この列島では近いうちに、残念ながら必ず、想定外の〈危機〉が起こるでしょう。次の防災・復興を有効に実現するのは誰か、それは、今、能登支援をボランティアとして経験している若者です。想定外に備える経験の蓄積、支え方を学ぶ次世代。「想定外に備える防災」が可能だとしたら、ここしかないようにも思えます。
そして、ここまで考えれば、ボランティアの典型例として、「祭り・祭祀」に注目するべきであることも、抵抗なく受け入れていただけるかもしれません。祭りを手伝うことが、そもそも自分たちの祭りをすることが、ボランティア、と言われると、違和感が残るかもしれません。そんな軽薄なもんじゃない、そのとおりです。祭りとチャリティとはまったく異なりますから。でもボラの本質として、「自分の地元を、在所を守るための志願」と言い換えたら、どうでしょうか。そもそも、自主性・連帯性・無償性、どこをとっても祭りをすることは、ボランティアの条件を完全に満たします。そして、今まさに能登の祭りは、あらゆる意味で〈危機〉に直面しています。
能登においては、門前においては、祭りこそ、そこへの参加と伝承こそ、〈危機〉に対峙する志願、なのです。そのための勇気が今、求められているはずなのです。
活動報告 2025年1月3日(金)
10:00 氷見発。この街は一気に復旧したように見えたが、細かいところで遅れが目立つ。復興は一様にはいかない。
11:00 門前への道中で、いっぱい虹をみました。1日からおそらく2桁は見ている。能登半島は、虹の島。
12:00 能登手仕事屋さん!うましうまし
13:00 本郷仮設。筵が凍ってる。少し並べ直しておきます。
14:00 浦上仮設。水害から守る防波堤は、この土嚢なのかあ…。堤防とか作れないのかな。
17:00 ボラさんと合流。危機に対峙する志願!頼りにしてます!
18:00 ケビン騒動。なかなか難しい…。
19:00 七尾なら総湯。だいぶ飽きたけど。
20:00 明日のデジタル機器の準備。教授よりも、学生ボラさんの方が圧倒的に詳しい。もはや授業の危機、とも言える。




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