能登・門前町日記 9月20日
「それでも、被災地には、ボランティアが、必要だ。」
氷見の災害ボラセンに詰めて3週間。被災して1か月が迫り、臭いも、疲労も、キツくなってきた。なにより湿気がひどい。ここまでの湿気は奥能登9月水害にはなかった気がする。そしてここ氷見では、人がその浸水環境の中で生きている。生活している。その生活環境も、守らなければならない。避難していた奥能登では、これもそこまで多くはなかった(仮設が浸水する信じられない被災はあったけど)。
被災地に入るといつも思うが、ここ氷見にも、とんでもないくらい優秀で、しかも、魂が入った半端ない人材が集まっている。みんな技術も経験もあって、ポリシーもあるけど譲ったり他者をリスペクトしたりがしっかりできていて、失敗に寛容で、でも締めるところはしっかりできて、基本は独立独歩なんだけど、必要に応じて他人としっかり協力できて、とりあえず、なんとか物事を前に進める、ということができる人たち。そして、自分のことや生活もいろいろあるんだけど、結局は無私で無欲で、利益も名誉も知名度もいらないよ、という人たち。なにより、目の前の困っている人をとりあえず助けるために、言い訳抜きで本気になれる人たち。
浸水した家を清掃し直すなら業者に頼め、という声もあるかもしれない。お金がないなら税金や補助金で負担できるようにする方法もあるのかもしれない。でも、氷見ボラセンで、床上げや養生について学んだり、一緒に泥かきさせていただいたりすると、よくわかる。
被災地に、ボランティアは、必要だ。
いや、被災地だからこそ、ボランティアにしか、できないことがあるのだ。
泥まみれの泥かきになって、床下から這いつくばって出てくると、申し訳なさそうな家主さんが話しかけてくれる。
「遠いところを本当に…」
「全国からみなさん来てくださって…」
ご夫婦ともどもご高齢、というお宅も多い。そのなかで、やりたくてもできなかったことを、床上げを、乾燥を、養生を、泥出しを、少しずつしていく。
少しずつ、生活を取り戻されていく、音がする。
家が傷つく、というのは、他のものが被災するのとは、質的に異なるらしい。
それはつまり、その人の、家族の、生活や歴史が、さらには存在が、傷つく、ということと同じだ。
だから、ただ治せばいい、というものではないのだ。
傷つけられた存在そのものを、まず、支えようとする必要があるのだ。
誰かが自分を支えようとしてくれている、という感覚が、生きることの危機に立ち向かう勇気を、与えてくれるのだ。
傷ついているのは、この列島の、社会の、仲間だ。共に生きる仲間の、その生活が、存在が、伝承が、脅かされている。
全国から志して、自分のできることを持ち寄って、お金とか経費とかをとりあえず脇に置いておいて、まず、仲間の存在を支えようとすること。これはまさに、ボランティアにしかできない。
被災により傷つけられた存在を、モノだけでなくココロでも支えること。
それは、仲間の危機に志願して対峙しようという、ボランティアにしかできないことだ。
だから、プロ顔負けの技術をもった人々が、ボランティアで、やっているのだ。
今日は、ちょっと養生の続きをしただけだったのだけど、90歳のおばあさまに、どら焼きとお茶をもらってしまった。
断ろうとしたら、「これは私もボランティアだから」と返されてしまって、ありがたくいただくことにした。
これも、ボランティアにしかできない往還だ。
正直、だいぶボロボロだけど、ボランティアにしかできないことがある、とわかれば、まだ頑張れる。
現に、技術系の先輩方は、まだまだ頑張っている。
今日もまた、自分の中で、人生が変わる音が聞
こえた気がした。
氷見ボラセンでは、毎日毎日、本当に学ぶことばかりだ。











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